徐庶母の烈女イメージはどこから? 靳允と三国評

三国志の劉備りゅうびに仕えていた徐庶じょしょ
母親が曹操そうそうに捉えられてしまったために劉備のもとから離れる決断をした親孝行な人として知られています。

その徐庶の母。
三国志演義では自分のせいで息子が仕えるべき主君を誤ることを嫌って自害する烈女として描かれています。
しかし正史にはそのような記述はありません。

徐庶母の烈女イメージはどこから来たのでしょうか。

正史に記載されている徐庶の家庭事情

正史『三国志』およびその注釈に引用されている史料で徐庶の家庭事情に関する記載があるのは下記の二箇所です。

庶先名福,本單家子。

訳:徐庶はもとの名を福といった。単家(大きな一族ではない家)の出である。
記載箇所:『三国志』諸葛亮伝の注釈に引用されている『魏略』

亮與徐庶並從,為曹公所追破,獲庶母。庶辭先主而指其心曰:「本欲與將軍共圖王霸之業者,以此方寸之地也。今已失老母,方寸亂矣,無益於事,請從此別。」遂詣曹公。

訳:諸葛亮しょかつりょうは徐庶とともに劉備に随行したが、曹公(曹操)の追撃を受けて敗れ、徐庶の母が捕らえられた。徐庶は先主(劉備)に別れをつげ、胸を指さして言った「将軍とともに王覇の業を図ろうとしていた心はこの一寸四方の地にありました。老母を失い、この一寸四方は乱れてしまい、お役に立つことができなくなりました。ここでおいとまいたします」こうして曹公のところへおもむいた。
記載箇所:『三国志』諸葛亮伝本文

単家の出。頼れる身内がいないから徐庶はお母さんを放っておくことができなかったのかもしれませんね。
史書の記述では徐庶が自分の志をなげうって母親のもとに駆けつける孝子であることは分かりますが、母親の人物像については記述がありません。

母親のもとに駆けつけなかった靳允

徐庶と対照的な選択をした靳允きんいんという人物がいます。

曹操の根拠地が呂布りょふに奪われそうになった時のこと。
曹操の勢力圏にある范県はんけんの長官であった靳允は、母・弟・妻子が呂布に捉えられていました。
靳允は曹操の謀臣である程昱ていいくに説得され、母のもとへは行かずに呂布への抵抗を続けました。

劉備に別れを告げて母のもとへ駆けつけた徐庶と、母のもとへは行かず曹操側に残った靳允。
この二人の対照的な行動は、のちに曹操と劉備の器の違いを表す話として批評されました。

徐衆の『三国評』

三国時代に続くしんの時代に徐衆じょしゅうという人物が『三国評』という書物を著したそうで、『三国志』の注釈にその本からの引用文がいくつか残っています。その中に靳允と曹操を批判している文章があります。

徐眾評曰:允於曹公,未成君臣。母,至親也,於義應去。
昔王陵母為項羽所拘,母以高祖必得天下,因自殺以固陵志。明心無所係,然後可得成事人盡死之節。
衞公子開方仕齊,積年不歸,管仲以為不懷其親,安能愛君,不可以為相。是以求忠臣必於孝子之門,
允宜先救至親。徐庶母為曹公所得,劉備乃遣庶歸,欲為天下者恕人子之情也。曹公亦宜遣允。

訳:徐衆の評にこうある。靳允は曹公(曹操)とはまだ君臣関係ではなかった。母は最も親しい者であるから、義において母のところへ赴くべきである。
むかし王陵おうりょうの母がこうに捉えられた際、彼女は高祖こうそがきっと天下を得るだろうと考え、自害して王陵の志を固めさせた。しがらみがなく覚悟を決めてこそ命がけで人に仕えることができるからである。
えいの公子の開方かいほうせいに仕え、何年も帰らなかった。管仲かんちゅうは彼が親を気にかけないとみなし、そういう人物が君主を大事にするはずがないと考え、大臣にしなかった。忠臣を求めるには必ず孝子の門を訪ねよということである。
靳允はまず最も親しい者を救うべきであった。徐庶の母が曹公に捉えられた際、劉備は徐庶を母のもとへ帰らせた。天下に臨もうとすれば子の情が立つようにしてやるべきだと考えたためである。曹公も靳允を母のもとへ行かせてやるべきであった。
記載箇所:『三国志』程昱伝

靳允は母親が呂布に捉えられているのに曹操側から引き止められて母のところへは行かなかったわけですが、親孝行は大事なことだから曹操は靳允を行かせてやるべきだった、劉備が徐庶を行かせたように、という評ですね。

徐庶の記述のそばに記載されている烈女

さて、さきほどの評の中に一人、烈女が出てきましたね。
王陵の母です。
項羽と劉邦りゅうほうが天下を争っていた際、王陵が劉邦の側につくと、項羽は王陵の母を人質にして王陵に寝返りを要求しました。
王陵の母は自分のせいで息子を惑わせてはいけないと考え、息子に劉邦のもとでしっかり仕えるよう手紙で伝えて自害しました。

さきほどの評は “親孝行は大事なことだから曹操は靳允を行かせてやるべきだった、劉備が徐庶を行かせたように” という終わり方をしていたわけですが、「徐庶」が出てくるその同じ文章の中に烈女の「王陵母」が出てきています。

三国志演義で徐庶の母が烈女として脚色されているのは、この評の「王陵母」にインスパイアされたからではないでしょうか?

三国志演義よりも早くに成立している三国志平話は庶民受けのする語り物の雰囲気を濃厚に残している本ですが、三国志平話には徐庶の母を烈女として描く演出はありません。
三国志演義はちまたに伝わる三国志の物語をとりこみつつ歴史書の記述を参照して知識人が愛読するに足る作品として練り上げられたものだと思いますが、作者が歴史書の記述を参照するプロセスで王陵母と徐庶が結びついたのではないでしょうか。

『三国志』で靳允を母のもとへ行かないよう説得したのは程昱ですが、三国志演義で徐庶を劉備から引き離す計略を立てたのも程昱になっており、このことも靳允の記述と演義の徐庶の近さを物語っていると思います。

徐庶母を描写することによる効果

『三国志』では徐庶が親孝行な人であることは分かりますが、徐庶についての記述が曹操の評価に直接影響することはありません。
三国志演義は徐庶の母を描くことでどういう効果を出しているのでしょうか。

まず、徐庶の親孝行を邪魔せずに送り出す劉備の懐の深さと、母親を人質にとっておびき寄せようとする曹操のさもしさとの対比を描き出しています。

劉備こそが仕えるべき主なのに曹操に乗り換えるとは恥さらしだと徐庶母に息子を罵らせることにより、さらに劉備と曹操の人物の差が強調されます。
徐庶の母が自害するほど受け入れ難いこととして描くのですからずいぶん強い表現です。
徐庶の親孝行を優先させた劉備と、はからずも親の命を奪った曹操との徳の差がさらに際立ちます。

親孝行であるがゆえに母を失ったという徐庶の悲劇に読者は同情しますから、曹操はひどいことをした、劉備とは大違いだ、徐庶は劉備のところにいられればよかったのに、徐庶を劉備から引き離した曹操が憎い、という感情に誘導されるのではないでしょうか。

これらはすべて演義の演出です。

演義の架空人物:徐庶の弟「徐康」

記事の題名からは外れますが、正史『三国志』には出てこない「徐康じょこう」という人物が三国志演義には出てきます。
徐庶の弟という設定で、おそらく架空の人物です。

程昱のセリフの中で説明される徐庶の家庭事情で、幼くして父が亡くなり、徐康が母を扶養していたが、徐康ももう亡くなったとなっています。
このセリフは徐庶の親孝行さをはっきりさせていますね。
演義の徐庶は弟が母をみてくれていたから母から離れて過ごしていられたのであって、母を一人で残しておくような人ではないという描写です。

まとめ

正史『三国志』では徐庶の母についての描写はなく、三国志演義で描かれている烈女の徐庶母は『三国評』にある王陵母にインスパイアされて造形された人物でしょう。
徐庶の母を烈女として描くことで、三国志演義は孝行息子徐庶の悲劇を演出し、孝行をさまたげない徳を持つ劉備とさもしく憎むべき曹操という人物像の対比を描き出しました。
徐庶母の描かれ方から演義の脚色の過程や表現力、表現方針をかいまみることができました。

原文引用元:漢籍電子文献資料庫
URL: https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/ihp/hanji.htm
最終閲覧日:2024年4月23日